第三十話 平家政権の成立と千葉常胤の戦略【稲毛新聞2025年12月号】
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2025/12/4
千葉一族盛衰記 作/けやき家こもん
前回は、頼朝挙兵以前における「房総の常胤」が、中央政治に深入りしすぎず、着実な在地支配と経営によって勢力を固めていたことを確認しました。
今回は、平家政権が全盛を誇った時代にあって、源氏方に属した千葉常胤がなぜ生き残り、勢力を保てたのか。その生存戦略を一次史料から検討していきます。
保元(1156)・平治(1159)の二度の政変は、東国武士にとって主従関係が大きく揺らいだ転換点でした。千葉常胤については『保元物語』に、源義朝に従って参陣したと記されていますが、戦功を示す確実な一次史料は確認できません。つまり、常胤は義朝陣営に「参加した」ことは確かとしても、京で華々しく戦ったと断言できる史料は存在しないのです。
続く平治の乱で義朝は敗死し、平家政権が成立します。この時期、義朝配下の武士が所領没収や追討を受け没落する中で、千葉一族は致命的な打撃を受けませんでした。その理由は、常胤が平治の乱に参戦した確実な証拠が史料上存在しない、という点にあります。
千葉市史は、相馬御厨が「平治の乱後に没収された」と記されていますが、これは中央政権が形式的に下した処分であり、支配の実態が失われたとは言い切れません。相馬御厨関係文書をたどると、常胤は没収後も官物(年貢)を納入し、下司権・郡司権を主張し続けており、支配体制は継続していたと考えられています。
もし常胤が平治の乱に義朝とともに戦っていたなら、その後の存続は極めて困難であったでしょう。しかし常胤は、源氏に心を寄せつつも中央政争に深入りしすぎず、領地に根を張り、形式上の処分を受けても揺るがぬ支配を維持しました。
つまり常胤は、「武力の時代」にあっても、二大勢力の狭間で距離感を巧みに調整し、領地を離れず、在地を固めて生き残るという思慮深い戦略をとったのです。そしてこの選択こそが、後の頼朝挙兵での鮮やかな逆転につながっていくのでした。
今回は、平家政権が全盛を誇った時代にあって、源氏方に属した千葉常胤がなぜ生き残り、勢力を保てたのか。その生存戦略を一次史料から検討していきます。
保元(1156)・平治(1159)の二度の政変は、東国武士にとって主従関係が大きく揺らいだ転換点でした。千葉常胤については『保元物語』に、源義朝に従って参陣したと記されていますが、戦功を示す確実な一次史料は確認できません。つまり、常胤は義朝陣営に「参加した」ことは確かとしても、京で華々しく戦ったと断言できる史料は存在しないのです。
続く平治の乱で義朝は敗死し、平家政権が成立します。この時期、義朝配下の武士が所領没収や追討を受け没落する中で、千葉一族は致命的な打撃を受けませんでした。その理由は、常胤が平治の乱に参戦した確実な証拠が史料上存在しない、という点にあります。
千葉市史は、相馬御厨が「平治の乱後に没収された」と記されていますが、これは中央政権が形式的に下した処分であり、支配の実態が失われたとは言い切れません。相馬御厨関係文書をたどると、常胤は没収後も官物(年貢)を納入し、下司権・郡司権を主張し続けており、支配体制は継続していたと考えられています。
もし常胤が平治の乱に義朝とともに戦っていたなら、その後の存続は極めて困難であったでしょう。しかし常胤は、源氏に心を寄せつつも中央政争に深入りしすぎず、領地に根を張り、形式上の処分を受けても揺るがぬ支配を維持しました。
つまり常胤は、「武力の時代」にあっても、二大勢力の狭間で距離感を巧みに調整し、領地を離れず、在地を固めて生き残るという思慮深い戦略をとったのです。そしてこの選択こそが、後の頼朝挙兵での鮮やかな逆転につながっていくのでした。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
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