短編@稲毛 vol.1

  25
  2024/7/2
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地元のフリーペーパー『稲毛新聞』さまが掲載してくださるということで、稲毛を舞台にした小品を書かせていただきました。

退屈な人

「行ってきます」
「行ってらっしゃい、高志さん」

 出勤のため家を出る夫をいつものように見送ると、千夏はすぐにいつもとは違う行動を取り始めた。身の回りのものをカバンに詰める。必要最低限の生活用品と財布、結婚前から持っている自分名義の預金通帳。いまはこれだけでいい。仮の支度としては十分だ。

 この朝、千夏は高志から逃げる───ことになっていた。

 流れで、そうなってしまった。実際には、逃げる必要などまったくない。夫婦仲は円満そのもの。高志は穏やかな人柄で、大声を上げたことすらない。一流企業に勤め、毎日酒も飲まずに真っ直ぐ家に帰ってくる。欠点らしい欠点もない。強いて言えば真面目すぎて退屈な人物であることくらい。だがそこが大きな問題だった。

 千夏は自分の夫が退屈な人物であることが悪いとは思わなかったが、美点であるとも思っていなかった。「あの人のご主人、退屈な人なんですってよ」ご近所の奥様方からひそひそと噂され、陰で嗤われていたらどうしようと思う。破天荒まで行ってしまうとそれはそれで困るが、ちょっとくらい教科書通りではない部分があれば、人生の良いスパイスになるのにと思うのだ。

 退屈な夫の教科書的な日常に、タバスコ的なピリッとした非日常を一滴垂らしてみたらどうなるだろうと想像すると、千夏はワクワクが止まらなくなるのだった。


「その旦那、大丈夫? おかしいよ絶対。捨てちゃった方がいい気がするけど」

 そう勧めてきたのは、SNSで知り合った「友達」だ。ナミコという名前以外、住んでいるところも知らない相手だが、ふとしたきっけからのやり取りをするようになり、いまではかなりプライベートに立ち入った相談までする仲だった。

 ナミコはどうやら千夏より少し年上の主婦で、夫の浮気に悩んでいるらしい。興信所に調査を依頼したいが費用に不安があるとか、法テラスに相談してみたが当たった弁護士が離婚問題に強い人ではなくて困ったとか、シリアスな話題を隠さずに書いてくる。

 千夏は自分だけが平穏そのものの結婚生活を送っていることに何となく申し訳なさを感じ、「私も旦那が変人で困ってる」と調子を合わせた。するとナミコはどのような変人なのか、根掘り葉掘り聞いてくるようになった。後に引けなくなり、「ダンゴムシをガラスケースに飼って繁殖させている」「女装の趣味がある。スカートや化粧品を隠しているのを見つけた」「ラーメンの食べ歩きに無理やり付き合わされる」などなど、架空の嫌悪や被害をでっち上げた。昨夜、「私に腹踊りをさせた動画を撮り、ネットにアップしようとした」と報告したところ、ナミコが激怒し、「天罰が下るレベルの変態じゃないか。逃げなさい。できるだけ早く家を出ろ」と強く背中を押してきたのである。

 家出か。ちょっと面白そう。

 高志が退屈な夫でなくなってほしいという要望を叶える方法としては、まったく適切ではなかったが、千夏は面白さを優先する欲望に勝てなかった。

「でも、どこへ逃げたらいい? 行く当てがないんだけど」
「実家は?」
 千夏は新潟の金属工場経営者の娘だったが、両親とも早死にし、弟が会社を継いでいる。千葉からはちょっと遠いし、もう10年近く帰っていないし、いくらなんでもこんな茶番の失踪劇に愚直な性格の弟を付き合わせるわけにはいかない。

 実家には頼れないと言うと、「旦那の両親を味方に付けられない?」と返ってきた。
 高志の実家など、自分の実家よりさらに行きづらいではないか。一人で顔を出せば怪しまれるだけだし、あなたの息子さんは天罰が下るレベルの変態ですなどと嘘を訴えることもできない。そんなことをしたら大騒動になってしまう。


「さっき家を出たよ。いまは京成電車に乗ってる」

 最寄駅である大森台駅から乗った京成千原線に揺られながら、千夏はナミコにDMで知らせる。最初は車で行くつもりだった。大規模ショッピングモールで買い物をしようか、お洒落なカフェでランチしようかと、色々なアイデアを思い巡らせていたのだが、「夫の所有物を持ち出すと、あとあと面倒なことになる」とナミコに忠告された。本当に家出するつもりはないのだから夫名義の車でも構わないはずだったが、たまには電車に乗るのもいいかと思い、ナミコの言葉に従ったのだった。

「京成って、どこまで行くの?」
「いま乗ってるのは津田沼行き。幕張本郷で総武線に乗り換えようと思ってるけど」
「そこから先はどうするつもり? 泊まるところとか」
「都内のホテルにでも行こうかと。もらい物の半額クーポン持ってきたから」
「悪くないけど、長期戦向きじゃないね。何だったらウチに来る? 家出しろと勧めた手前、私にも責任あるからさ。ウチに来なよ。千葉からだとちょっと遠いけど」

 ナミコの誘いに対し、千夏はしばし返事を躊躇った。夫婦間のぎくしゃくしている家庭にお邪魔するのは気が進まなかったこと、リアルで顔を合わせたら高志の変態行為として並べたてた事柄が狂言だとすぐ見抜かれてしまう予感がしたこと。どちらか一つでもお断りする理由として十分だと思い至ったのだが、返事を書く前にナミコから続きのメッセージが届く。

「ちなみに亭主は最近ほとんど家に帰ってこない状態。私の一人暮らしみたいなもんだから気兼ねはいらないよ」
 事実上の別居状態になるまで拗れてしまっているのか。ナミコもさぞや神経のすり減るような思いを抱えていることだろう。自分のケースは嘘だったと正直に告白して謝り、お詫びにナミコの悩みに寄り添い、力になってあげるべきなのではないだろうか。
 そんなふうに思い直し、「ナミコさんの家はどこなの?」と聞いたが、その答えが届く前に電車が幕張本郷駅に到着していた。

 ホームから階段を登り、改札を抜ける。乗り換え先の総武線ホームに向かおうとして、千夏はギクリとして立ち止まった。

「高志さん・・・・・・」

 零れ落ちそうなほど丸くした目が捉えているのは、いつもの穏やかな表情を顔に浮かべた夫だった。
「さて、行き先は都内のホテルだったっけ。それとも他に行きたいところがあれば、そこでもいいよ。どうする?」


 家に帰る車の助手席で、千夏はこれでもかというほどに身を縮めていた。

 運転席の高志を窺ってみる。そのかすかな視線を感じたのか、高志は前を向いたまま謎解きを始めた。

「本当に偶然なんだけど、これ千夏じゃないかというSNSアカウントを見つけてさ。フォローしてしばらくつぶやきを読ませてもらって、確信した。ぼくの知っている千夏の行動とつぶやきの内容が完全に一致していたからね」
「う、う・・・・・・ごめんなさい」
「いや、ナミコになりすまして、いろんな話を捏造したことは悪かった。千夏が面白がってくれればという一心だったんだ」

 けれど、と高志は横目でチラリと千夏を見やり、ふふっと笑った
「まさか千夏も乗ってくるとは思わなかったよ。ぼくにいろんなキャラの色付けをしてさ。ダンゴムシに女装趣味に、あと何だっけ。あ、そうだ、腹踊りか」
「あ、あれは・・・・・・その、全部嘘だから」
「もちろんわかってるよ」
 苦笑して高志は続けた。「君がだんだんソワソワと落ち着かなくなっていたので、何か企んでいるなとは気づいたよ。だったら実際に行動してもらおうかと、逃げろ、家を出ろと繰り返して焚き付けたのさ」

「どうして、そんなこと・・・・・・」
「勢いかな。架空の設定をやり取りしているうちに引っ込みがつかなくなった。千夏もそうだったんじゃないの」
 真っ赤な顔で小さく頷くと、高志は声を出して笑った。
「・・・・・・ナミコって名前は・・・・・・どこから」
 千夏がそう聞くと、肩を竦めた。
「平穏な日常に波乱がほしかったんだろ? だから『波乱』の波を取ってナミコ」
 千夏はぎゅっと目を瞑った。そんなの、わからないよ。

 ただ、高志がちっとも退屈な人なんかじゃないことはわかった。むしろ逆の、変な人だった。今まで見誤っていてごめんなさい。言葉にはできなかったが、心の底から詫びた。
「だけど今回の罰として、一つだけペナルティを科す。覚悟してね」
「え? ・・・・・・いいけど、何をすれば」
 信号が赤になり、車が止まった。その瞬間、高志がスマートホンをポケットから取りだし、レンズを千夏に向ける。口の端がニヤリと歪むのが見えた。
「腹踊りの動画を撮って、SNSにアップするのさ」
このまとめ記事の作者
くれよんのこれくしょん
草野くれよん
千葉市内、特に稲毛エリアを舞台とした地域密着型の物語集「オリジナル・ローカル・ノベル」です。 ※noteでも公開中しています。
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