♯第7話 虹の彼方に Over The Rainbow
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2022/6/10
“
「♯(シャープ)」これまでのstory
千葉市の港の街・千葉みなとに住む中学生の千神七子(チガミナコ・14歳)は、量子学者の父・千神雄造から、失踪直前に赤石の指輪【リング】を渡される。それは想念を「現実化する」力を持つものだった。手にしたナコは千葉港の底から湧き現れる謎の物体“♯(シャープ)”に襲われるようになり、身を護るためリングを使い、鎧の戦士に変身して戦う。一方、雄造の教え子の真仲央(マナカアキラ・23歳)はナコの突然の訪問を受けたことから、見えざる戦いに巻き込まれていく。アキラは行方不明の雄造に代わって保護者としてナコと同居することに。ナコの親友でしゃべるカモメのアルとともに秘密と謎を抱えて暮らし、三か月が過ぎた。
”
もくじ
・ ♯2022年6月、千葉駅近く、新町交差点の乱闘。・ ♯赤石のリングの謎。・ ♯いつのまに取り入ったんだよ。・ ♯できるなら声を大にして。・ ♯授業参観はやっぱり最悪で。・ ♯そして虹のランデブー。
長靴の女の子が赤い傘を閉じると、雨上がりの夕焼けのアカネ雲が見える。
「お父さん」
女の子は隣の父親の手をぎゅっと握りしめる。
「いまね。モノレール、火の鳥になって、虹の向こうに飛んでったよ」
「火の鳥?」
女の子は頷いて、走り去る懸垂型モノレールを指さした。「名前はねえ、えっと」
「イカロス」父親はふと呟く。
「イカ、ロス?」
「お父さんが小さいころ見てたアニメに出てきたんだ」
「じゃああの子の名前、イカロスに決めた」
「ナコの想像はいつもおもしろいなぁ。もし…想ったことが本当になったら、楽しいね」
父親は女の子に微笑む。手をつないで歩く父娘の向こう、
濡れたアジサイの薄紫色に夕映えの光が混じり、2012年の初夏が過ぎる。
「お父さん」
女の子は隣の父親の手をぎゅっと握りしめる。
「いまね。モノレール、火の鳥になって、虹の向こうに飛んでったよ」
「火の鳥?」
女の子は頷いて、走り去る懸垂型モノレールを指さした。「名前はねえ、えっと」
「イカロス」父親はふと呟く。
「イカ、ロス?」
「お父さんが小さいころ見てたアニメに出てきたんだ」
「じゃああの子の名前、イカロスに決めた」
「ナコの想像はいつもおもしろいなぁ。もし…想ったことが本当になったら、楽しいね」
父親は女の子に微笑む。手をつないで歩く父娘の向こう、
濡れたアジサイの薄紫色に夕映えの光が混じり、2012年の初夏が過ぎる。
♯2022年6月、千葉駅近く、新町交差点の乱闘。
ナコの背負うリュックのなかで、カモメのアルはむくれていた。
夕暮れの千葉ショッピング街。クラスの劇に使うリボンを買うとかでナコの買い物に付き合ったはいいが、かれこれ二時間以上もウィンドウショッピングして回っている。全く女ってやつは。アルはげっそりして首を出す。
「腹減ったし暑いし。北京ダックになっちゃうぞ~」
「もう帰るって。あっ見て、あのドレスかわいい」
そごうオーロラジュンヌ前に特設展示されたジューンブライドコーナーのドレスに、ナコの足はまた完全に止まってしまった。アルはため息をつく、そのとき。
路地の一角で怒号と鈍い衝撃音が響いた。アルは飛び出て、辺りを旋回する。入り組んだ路地の一角、現金収集車のガードマンが路上に横たわり、顔を覆った男たちがもう一人に鈍器を振り上げていた。
「ナコ、強盗だ」戻ったアルはナコに告げる。ナコの表情が固くなる。
その路地の警備員は警棒で反撃する。と、強盗の一人がナイフを取り出し振り上げた。倒された警備員は目をつぶる。しかしナイフを持つ男の腕はそれ以上、下がらなかった。その手首を何か鋼のようなものが握っていたから。その手にはめられた指輪が赤く妖しく光る。
「やれるもんならやってみな」
背後に立つメタモルフォゼした鎧のナコが笑った。と、そのまま男を捻って倒す。アルは目を丸くする。ナコは鎧の上に純白のドレスを着ている。
別の仲間の男がナコの後から襲った。ナコの手が動く。居酒屋の看板が男めがけて落下する。身体に直撃し、男は地面でうめき声を上げた。
「ナ、ナコ?!なんてこと」唖然とアルはナコを見る。鎧のナコは笑う。
「本物じゃない。幻覚を見せているだけだ」
まずい、と顔を見合わせる強盗たちは停めていた車に乗り、発進する。そして新町の大交差点に暴走して突っ込んだ。ちょうど横断歩道を渡っていた、ベビーカーを押す女性が立ちすくむ。
「助けて」
鎧ナコの手が動く。透明な壁が、交差点に立つ女性をオブラートのようにベビーカーごと囲む。暴走車は透明の壁に激突し、空でゆっくりと反転すると、頭を下にして落下した。
クラクションと悲鳴がこだました。歓楽街の小路地に駆け込んだナコは元の姿に戻ると、積まれた可燃ごみの袋につまづき、足を抱えてうずくまる。
「ナコ、早くここ離れよう」と、パトカーの音にアルはナコを促す。
「足、くじいちゃった」ナコは顔をしかめる。
「ええっ」アルは羽の間からスマホを取り出した。
「アキラ~!!」
グランドピアノがあるマンションの一室で、アキラはにピアノにもたれかかる女の背後から手を回して、ブラウスのボタンを外していた。第3ボタンを外したところで、呼び出し音が鳴る。第5ボタンに手をかけても鳴りやまないスマホをアキラは尻ポケットから抜くと、「カモメ」と表示された電話口に言った。
「練習中」
聞いていたアキラは舌打ちする。
「なんだと畜生」
ピアノの椅子に掛けてあったライダースジャケットを掴むと女に言う。「続きはまた」
新町交差点には交通規制が敷かれ、パトカーや救急車、野次馬も大勢集まっていた。バイクのアキラはターンすると、歓楽街の路地に向かう。
「ナコ!」
「アキラさん」路上に積まれたごみ袋から、ナコの泣きべそ顔が出た。アキラはバイクを停めると袋をかき分けナコを抱え出す。そしてそのまま後部シートに落とすと、再び跨る。
「捕まってろ」
ナコは慌ててアキラの腰に抱きつき、アルはリュックの中に納まる。アキラは発進させた。
夕暮れの千葉ショッピング街。クラスの劇に使うリボンを買うとかでナコの買い物に付き合ったはいいが、かれこれ二時間以上もウィンドウショッピングして回っている。全く女ってやつは。アルはげっそりして首を出す。
「腹減ったし暑いし。北京ダックになっちゃうぞ~」
「もう帰るって。あっ見て、あのドレスかわいい」
そごうオーロラジュンヌ前に特設展示されたジューンブライドコーナーのドレスに、ナコの足はまた完全に止まってしまった。アルはため息をつく、そのとき。
路地の一角で怒号と鈍い衝撃音が響いた。アルは飛び出て、辺りを旋回する。入り組んだ路地の一角、現金収集車のガードマンが路上に横たわり、顔を覆った男たちがもう一人に鈍器を振り上げていた。
「ナコ、強盗だ」戻ったアルはナコに告げる。ナコの表情が固くなる。
その路地の警備員は警棒で反撃する。と、強盗の一人がナイフを取り出し振り上げた。倒された警備員は目をつぶる。しかしナイフを持つ男の腕はそれ以上、下がらなかった。その手首を何か鋼のようなものが握っていたから。その手にはめられた指輪が赤く妖しく光る。
「やれるもんならやってみな」
背後に立つメタモルフォゼした鎧のナコが笑った。と、そのまま男を捻って倒す。アルは目を丸くする。ナコは鎧の上に純白のドレスを着ている。
別の仲間の男がナコの後から襲った。ナコの手が動く。居酒屋の看板が男めがけて落下する。身体に直撃し、男は地面でうめき声を上げた。
「ナ、ナコ?!なんてこと」唖然とアルはナコを見る。鎧のナコは笑う。
「本物じゃない。幻覚を見せているだけだ」
まずい、と顔を見合わせる強盗たちは停めていた車に乗り、発進する。そして新町の大交差点に暴走して突っ込んだ。ちょうど横断歩道を渡っていた、ベビーカーを押す女性が立ちすくむ。
「助けて」
鎧ナコの手が動く。透明な壁が、交差点に立つ女性をオブラートのようにベビーカーごと囲む。暴走車は透明の壁に激突し、空でゆっくりと反転すると、頭を下にして落下した。
クラクションと悲鳴がこだました。歓楽街の小路地に駆け込んだナコは元の姿に戻ると、積まれた可燃ごみの袋につまづき、足を抱えてうずくまる。
「ナコ、早くここ離れよう」と、パトカーの音にアルはナコを促す。
「足、くじいちゃった」ナコは顔をしかめる。
「ええっ」アルは羽の間からスマホを取り出した。
「アキラ~!!」
グランドピアノがあるマンションの一室で、アキラはにピアノにもたれかかる女の背後から手を回して、ブラウスのボタンを外していた。第3ボタンを外したところで、呼び出し音が鳴る。第5ボタンに手をかけても鳴りやまないスマホをアキラは尻ポケットから抜くと、「カモメ」と表示された電話口に言った。
「練習中」
聞いていたアキラは舌打ちする。
「なんだと畜生」
ピアノの椅子に掛けてあったライダースジャケットを掴むと女に言う。「続きはまた」
新町交差点には交通規制が敷かれ、パトカーや救急車、野次馬も大勢集まっていた。バイクのアキラはターンすると、歓楽街の路地に向かう。
「ナコ!」
「アキラさん」路上に積まれたごみ袋から、ナコの泣きべそ顔が出た。アキラはバイクを停めると袋をかき分けナコを抱え出す。そしてそのまま後部シートに落とすと、再び跨る。
「捕まってろ」
ナコは慌ててアキラの腰に抱きつき、アルはリュックの中に納まる。アキラは発進させた。
♯赤石のリングの謎。
その夜。千葉みなとハウスのナコの家では、「千葉で強盗逮捕」のニュースがテレビから流れていた。『逃走に伴い車両事故が発生しましたが奇跡的に怪我人はいませんでした。なお現場では犯人を撃退した少女がいたという目撃もあり、話題になっています』
スマホに投稿された鎧ドレス姿のぼやけた写真を見たアキラはナコを睨む。
「なんだこれは」
「直前にドレスを見てたから、変身に入っちゃったみたい」ナコは苦笑する。
「ジューンブライド・バージョンさ。ディズニープリンセスみたい」アルがうっとりする。
「笑いごとか。人前でリング使って!これはオレたちだけの秘密なんだぞ」
ぴしゃりとアキラが言い、ナコは消沈して手帳をテーブルに置く。アキラは、赤石のリングを手に取る。千神雄造が娘に託したものだ。
一昨年まで、アキラは雄造の大学のゼミ研究室にいた。雄造は学内の政治には一切無頓着の研究バカだったが、飄々とした懐深さがありアキラは少なからず慕っていた。当時雄造は量子物理学的には脳で抱いた想念を3Dに起こし、瞬時に形づくることは十分可能だと語った。しかし実現したら取り扱いは難しく、公にするのは難しいとも言った。いわばどんな望みもかなえる”魔法”なのだ。内外の様々な業種から研究資金提供の声が来ていたが、雄造はすべて断っていた。
あれから雄造の研究は、成功したのだ。しかし姿を消した。大学には辞表を出し、実験装置からPCディスクまで叩き壊して。半年たった今も音沙汰はない。そもそもなぜ手帳に自分の名前を書いたのか。それを見てナコが会いに来たのが発端なのだ。
アキラはふとリングを指にはめる。何も起こらない。「ナコ仕様なんだ」アルが言う。
ナコは思い出す。小さいころ研究室に遊びに行ったとき、雄造はナコの脳波など脳活動の計測データを詳細に取っていた。優しい父の横顔を思い出す。いまはどこにいるのだろう。
ソファで雄造の写真を見てしずむナコ。アルはアキラを片隅に呼び出した。
「おい。さっきはボーカルの女との練習中、悪かったな」
「次は行かねえからな」
「これ」アルは一枚の学校のプリントを差し出す。授業参観のご案内とある。
「今度の土曜に父の日授業参観がある。ナコ、初めて一人で歌うんだ。『虹の彼方に』を。参観にはいつも親父さんは来てくれてたらしい。代わりに晴れ姿見に行ってやれよ」
「やだね」アキラは言い、ちら、と沈むナコを見る。
スマホに投稿された鎧ドレス姿のぼやけた写真を見たアキラはナコを睨む。
「なんだこれは」
「直前にドレスを見てたから、変身に入っちゃったみたい」ナコは苦笑する。
「ジューンブライド・バージョンさ。ディズニープリンセスみたい」アルがうっとりする。
「笑いごとか。人前でリング使って!これはオレたちだけの秘密なんだぞ」
ぴしゃりとアキラが言い、ナコは消沈して手帳をテーブルに置く。アキラは、赤石のリングを手に取る。千神雄造が娘に託したものだ。
一昨年まで、アキラは雄造の大学のゼミ研究室にいた。雄造は学内の政治には一切無頓着の研究バカだったが、飄々とした懐深さがありアキラは少なからず慕っていた。当時雄造は量子物理学的には脳で抱いた想念を3Dに起こし、瞬時に形づくることは十分可能だと語った。しかし実現したら取り扱いは難しく、公にするのは難しいとも言った。いわばどんな望みもかなえる”魔法”なのだ。内外の様々な業種から研究資金提供の声が来ていたが、雄造はすべて断っていた。
あれから雄造の研究は、成功したのだ。しかし姿を消した。大学には辞表を出し、実験装置からPCディスクまで叩き壊して。半年たった今も音沙汰はない。そもそもなぜ手帳に自分の名前を書いたのか。それを見てナコが会いに来たのが発端なのだ。
アキラはふとリングを指にはめる。何も起こらない。「ナコ仕様なんだ」アルが言う。
ナコは思い出す。小さいころ研究室に遊びに行ったとき、雄造はナコの脳波など脳活動の計測データを詳細に取っていた。優しい父の横顔を思い出す。いまはどこにいるのだろう。
ソファで雄造の写真を見てしずむナコ。アルはアキラを片隅に呼び出した。
「おい。さっきはボーカルの女との練習中、悪かったな」
「次は行かねえからな」
「これ」アルは一枚の学校のプリントを差し出す。授業参観のご案内とある。
「今度の土曜に父の日授業参観がある。ナコ、初めて一人で歌うんだ。『虹の彼方に』を。参観にはいつも親父さんは来てくれてたらしい。代わりに晴れ姿見に行ってやれよ」
「やだね」アキラは言い、ちら、と沈むナコを見る。
♯いつのまに取り入ったんだよ。
みなと中の音楽室の窓から、ピアノと歌が梅雨空へと流れていく。明日の土曜参観に生徒企画として披露する音楽劇「オズの魔法使」のリハーサルで、ナコは歌っていた。
オズの魔法使は、竜巻で故郷から飛ばされた少女ドロシーが魔女と戦いながら旅するファンタジーで、見せ場はドロシーが歌う『虹の彼方に』だ。当然人気で役決めは難航したが、生徒会長であり演出を務める菊田龍成の強い推薦もあって、なんとドロシー役はナコに決まってしまった。
歌い終わったナコに、龍成はふむ、と頷く。
「可憐。まさにドロシー。俺の眼に狂いはなかった」
「やっぱり緊張するよ。一人で歌ったことなんてないし」ナコは小さく言う。
「このままやればいい。千神、声きれいなんだ。もっと自分に自信持って」龍成は熱をこめる。
その姿を離れて冷ややかに見ている女子たちがいる。
「ナコのやつ、いつのまにプリンスに取り入ったんだよ」
「純情ぶってけっこうエグいことするんだね」
「本番で大恥かけば反省すんじゃない」
冷たい視線の先、ナコは伴奏の由紀子に笑う。
「本番もよろしくね。由紀ちゃんが頼りだから」
「うん。任せて」由紀子は頷く。
オズの魔法使は、竜巻で故郷から飛ばされた少女ドロシーが魔女と戦いながら旅するファンタジーで、見せ場はドロシーが歌う『虹の彼方に』だ。当然人気で役決めは難航したが、生徒会長であり演出を務める菊田龍成の強い推薦もあって、なんとドロシー役はナコに決まってしまった。
歌い終わったナコに、龍成はふむ、と頷く。
「可憐。まさにドロシー。俺の眼に狂いはなかった」
「やっぱり緊張するよ。一人で歌ったことなんてないし」ナコは小さく言う。
「このままやればいい。千神、声きれいなんだ。もっと自分に自信持って」龍成は熱をこめる。
その姿を離れて冷ややかに見ている女子たちがいる。
「ナコのやつ、いつのまにプリンスに取り入ったんだよ」
「純情ぶってけっこうエグいことするんだね」
「本番で大恥かけば反省すんじゃない」
冷たい視線の先、ナコは伴奏の由紀子に笑う。
「本番もよろしくね。由紀ちゃんが頼りだから」
「うん。任せて」由紀子は頷く。
♯できるなら声を大にして。
金曜夜の千葉みなと駅前にあるジャズ・バーclipperの店前には「今夜のライブJerryFish」のプレートが光る。ライブ開演までメンバーがそろうまでの間、港湾エリアの勤務先の鉄鋼会社研究室から一足先に着いたアキラは『虹の彼方に』をピアノで弾く。
アキラは小学生のころを思い出す。あるとき仕事で忙しい母親が珍しく授業参観に来ると言った。当日、アキラは何度も保護者達のいる教室の後ろを振り返った。母の姿は最後までなかった。夜帰宅した母は急な仕事でと謝った。アキラは「もう来なくていい、絶対来ないで」と言った。母は哀しい表情を浮かべた。その後しばらくして母は家を出て、以来全く会っていない。参観は、苦い思い出しかない。
ベースのギンこと山下銀嶺が、シェフコートを畳みながら目の前に座る。
「最近顔色もいいな。ごはんをしっかり食べるようになったのはいいことだ」
「あいつが勝手に作っちゃうんだよ」
「ナコちゃんは福の神だね。しっかり面倒みてくれて」
「冗談だろ」アキラは眉をひそめる。ごみ袋の間で立ち往生するナコの回収までして、口うるさいカモメに悩まされながら面倒みてるのはこっちだ。ナコの窮状を見かねて春から同居し、ついに夏に突入したが、生きた心地がしない。#という謎の物体に襲われ2度死にかけた。断じて福ではない。できるなら声を大にして叫びたい。「疫病神」と。
「ちゃーす」と家の鮮魚店からあたふたやってきたドラムスのデズこと寒川達生に、西部劇のバーようなオーク色の扉を開けて、マスターが厨房から顔を出す。
「Somewhere over the rainbow Bluebirds fly。幸福の青い鳥は案外身近にいるのさ」
「なに気取ってんだか」
デズはふと客席後方、壁の帆船のセピア絵の下、ぽつんと座る女性客に気づいた。初めて見る顔だ。と、その娘と目が合った。娘は恥ずかし気に目を落とす。えっとデズは見る。と、入ってきた端正なスーツネクタイ姿の手嶌新一郎に「なんだその不審な目つきは」と叩かれた。
「なにすんだよ」デズはボーカルの新一郎に口をとがらす。
「文句はメイクのあと」新一郎はカクテルドレスを手にすっと奥に消えた。
アキラは小学生のころを思い出す。あるとき仕事で忙しい母親が珍しく授業参観に来ると言った。当日、アキラは何度も保護者達のいる教室の後ろを振り返った。母の姿は最後までなかった。夜帰宅した母は急な仕事でと謝った。アキラは「もう来なくていい、絶対来ないで」と言った。母は哀しい表情を浮かべた。その後しばらくして母は家を出て、以来全く会っていない。参観は、苦い思い出しかない。
ベースのギンこと山下銀嶺が、シェフコートを畳みながら目の前に座る。
「最近顔色もいいな。ごはんをしっかり食べるようになったのはいいことだ」
「あいつが勝手に作っちゃうんだよ」
「ナコちゃんは福の神だね。しっかり面倒みてくれて」
「冗談だろ」アキラは眉をひそめる。ごみ袋の間で立ち往生するナコの回収までして、口うるさいカモメに悩まされながら面倒みてるのはこっちだ。ナコの窮状を見かねて春から同居し、ついに夏に突入したが、生きた心地がしない。#という謎の物体に襲われ2度死にかけた。断じて福ではない。できるなら声を大にして叫びたい。「疫病神」と。
「ちゃーす」と家の鮮魚店からあたふたやってきたドラムスのデズこと寒川達生に、西部劇のバーようなオーク色の扉を開けて、マスターが厨房から顔を出す。
「Somewhere over the rainbow Bluebirds fly。幸福の青い鳥は案外身近にいるのさ」
「なに気取ってんだか」
デズはふと客席後方、壁の帆船のセピア絵の下、ぽつんと座る女性客に気づいた。初めて見る顔だ。と、その娘と目が合った。娘は恥ずかし気に目を落とす。えっとデズは見る。と、入ってきた端正なスーツネクタイ姿の手嶌新一郎に「なんだその不審な目つきは」と叩かれた。
「なにすんだよ」デズはボーカルの新一郎に口をとがらす。
「文句はメイクのあと」新一郎はカクテルドレスを手にすっと奥に消えた。
♯授業参観はやっぱり最悪で。
土曜参観当日の朝は雨だった。
みなと中学校の音楽室の前には「3C保護者謝恩企画・音楽劇 オズの魔法使」の貼り紙がある。保護者席には子供、祖父母たちまであふれ、賑わって立ち見も出ていた。
「ウソ」控室から覗いたナコは、人の多さに驚愕した。足が震える。
音楽劇は始まった。龍成が手慣れたMCで進めていく。ドロシーの同行者となるブリキ男やかかし、ライオンたちのコミカルな歌に、保護者席から拍手と笑い声が響く。
ナコの緊張をよそに演目は進み、ついに出番となった。
「『虹の彼方に』の独唱、歌はナコさん、ピアノは由紀子さん」龍成はナコに合図する。ナコは身を固くして舞台に進み出る。そしてピアノの由紀子を見る。しかしそこには誰もいなかった。
「由紀ちゃんさっき保健室行きました。お腹痛いって」ひとりの女子が手をあげる。
えっ。ナコは凍り付く。
「他に伴奏できる人は?」龍成は慌てて見回す。
「ひとりで歌えば、いいと思います」どこかから声がして、反応する笑い声が沸いた途端、ナコの目の前は白くなって、しっかり覚えたはずの歌詞がすっぽり頭から消え去ってしまった。
ナコは真っ赤になって立ち尽くす。歌おうとしても声が出ない。音楽室が処刑場に変わってしまったようだった。異国のオズの国に飛ばされ、好奇の目に取り囲まれたドロシーもこんな気持ちだったのだろうか。
ざわめく教室の後でアキラの顔が覗く。アルにうるさく焚きつけられて渋々ここまで来たのだ。リュックからアルが顔を出す。
「…おい。ナコのピンチだ。伴奏やってやれよ。キーはA♭だ」
「やだよこんなとこで、断る」
「ワタシ、伴奏できまーす!」リュックのアルが大声で叫んだ。
クラス中の注目がアキラに集まる。さーっと人垣が割れた。観念してアキラは前に出た。
「アキラさん」ナコは目を丸くする。
「お願いします、ぜひ」膠着状態を打開せねばと龍成はアキラに頭を下げる。
アキラはピアノの前に座った。バラードのイントロを弾いてナコに促す。しかしナコは歌詞が出ず凍りついたままだ。一同が固唾をのむ教室のなかでピアノだけが流れる。
「サムホェァ…オーバーザレインボー、ウェイアップ、ハイ」
叫ぶように歌い出したのはアキラだった。教室中がポカンとアキラを見る。出てきてしまった以上、収拾は代わりに歌う以外に思いつかなかった。ちょっと音痴なのだがもはや、ヤケクソだった。ジャズスタンダードとしても親しまれているハロルド・アーレンのこの曲は、Aセクションを二回繰り返した後Bセクションのサビになる。なんとか出だしは歌ったものの、その先の歌詞はどうやってもアキラに浮かんでこなかった。ライブで一度もあがったことはないアキラは動転する。サビ手前でついに手が止まった、そのとき。
「星に願いを込めれば いつしか雲の上」
ナコが歌っていた。アキラは目を閉じ伴奏を続ける。ナコのやわらかな声が響く。
「レモン飴のように悩みも溶ける 私はここにいるわ
いつか虹の彼方に 青い鳥が飛ぶ その夢 私なら かなえられる」
アキラは鍵盤から顔を上げた。小学生のアキラが、振り返る。
拍手しているナコがいる。雨上がりの日差しが、雲間から差し込んでいる。
みなと中学校の音楽室の前には「3C保護者謝恩企画・音楽劇 オズの魔法使」の貼り紙がある。保護者席には子供、祖父母たちまであふれ、賑わって立ち見も出ていた。
「ウソ」控室から覗いたナコは、人の多さに驚愕した。足が震える。
音楽劇は始まった。龍成が手慣れたMCで進めていく。ドロシーの同行者となるブリキ男やかかし、ライオンたちのコミカルな歌に、保護者席から拍手と笑い声が響く。
ナコの緊張をよそに演目は進み、ついに出番となった。
「『虹の彼方に』の独唱、歌はナコさん、ピアノは由紀子さん」龍成はナコに合図する。ナコは身を固くして舞台に進み出る。そしてピアノの由紀子を見る。しかしそこには誰もいなかった。
「由紀ちゃんさっき保健室行きました。お腹痛いって」ひとりの女子が手をあげる。
えっ。ナコは凍り付く。
「他に伴奏できる人は?」龍成は慌てて見回す。
「ひとりで歌えば、いいと思います」どこかから声がして、反応する笑い声が沸いた途端、ナコの目の前は白くなって、しっかり覚えたはずの歌詞がすっぽり頭から消え去ってしまった。
ナコは真っ赤になって立ち尽くす。歌おうとしても声が出ない。音楽室が処刑場に変わってしまったようだった。異国のオズの国に飛ばされ、好奇の目に取り囲まれたドロシーもこんな気持ちだったのだろうか。
ざわめく教室の後でアキラの顔が覗く。アルにうるさく焚きつけられて渋々ここまで来たのだ。リュックからアルが顔を出す。
「…おい。ナコのピンチだ。伴奏やってやれよ。キーはA♭だ」
「やだよこんなとこで、断る」
「ワタシ、伴奏できまーす!」リュックのアルが大声で叫んだ。
クラス中の注目がアキラに集まる。さーっと人垣が割れた。観念してアキラは前に出た。
「アキラさん」ナコは目を丸くする。
「お願いします、ぜひ」膠着状態を打開せねばと龍成はアキラに頭を下げる。
アキラはピアノの前に座った。バラードのイントロを弾いてナコに促す。しかしナコは歌詞が出ず凍りついたままだ。一同が固唾をのむ教室のなかでピアノだけが流れる。
「サムホェァ…オーバーザレインボー、ウェイアップ、ハイ」
叫ぶように歌い出したのはアキラだった。教室中がポカンとアキラを見る。出てきてしまった以上、収拾は代わりに歌う以外に思いつかなかった。ちょっと音痴なのだがもはや、ヤケクソだった。ジャズスタンダードとしても親しまれているハロルド・アーレンのこの曲は、Aセクションを二回繰り返した後Bセクションのサビになる。なんとか出だしは歌ったものの、その先の歌詞はどうやってもアキラに浮かんでこなかった。ライブで一度もあがったことはないアキラは動転する。サビ手前でついに手が止まった、そのとき。
「星に願いを込めれば いつしか雲の上」
ナコが歌っていた。アキラは目を閉じ伴奏を続ける。ナコのやわらかな声が響く。
「レモン飴のように悩みも溶ける 私はここにいるわ
いつか虹の彼方に 青い鳥が飛ぶ その夢 私なら かなえられる」
アキラは鍵盤から顔を上げた。小学生のアキラが、振り返る。
拍手しているナコがいる。雨上がりの日差しが、雲間から差し込んでいる。
♯そして虹のランデブー。
放課後となり、夕暮れの道。アキラとナコは帰途についた。互いに言葉を発することなく、とぼとぼと歩く。
と、空が黒みを帯び、雷が鳴る。地揺れとともに目の前の地面に、#がみるみると浮き出た。
「ナコ、奴らだ」リュックのアルが息をのむ。
龍が地中を潜る如く地面が盛り上がりながら、ナコに迫ってくる。ナコはリングを付け、気をこめる。ドレス姿の鎧ナコにメタモルフォゼすると、リングの手で地面を叩く。盛り上がった地面は後退する。すると地面から影が次々と現れアキラの足に絡み、アルの首に巻き付く。「ナコ!」
「イカロス!」鎧ナコは空に叫ぶ。モノレールがレールを外れて火の鳥となってやってくる。鎧ナコはイカロスに飛び乗ると、アキラに手を差し出した。
「ついてこい」
「え…っ?」
「さっさと来い」
アキラは鎧ナコの手に引っ張られ、イカロスを慌てて掴む。身体が浮く。「バイバーイ」アルは、小さくなっていく地上の影たちに叫ぶ。イカロスは七色に変化しながら、空へ大きなアーチを描いていった。
夕闇迫る千葉港の海上には、巨大な虹のアーチがかかっていた。
上空、マテリアル化した七色の虹。そのてっぺんのあたりに鎧のナコとアキラは腰かけている。
眼下には千葉港の鉄鋼や燃料工場群の赤銅色の灯がゆらゆらと光り、東は房総半島、西はスカイツリーや東京タワーのある都湾岸エリアの夜景、その地平線の向こうに夕陽は沈んでいく。地上100mのポートタワーもはるか下、目の前には市街のビル群がそびえ、住みかであるみなとハウスの灯りは全く見えない。
「で。いつ、ここから降ろしてくれるの」
上空の冷たい風に歯を鳴らしながら、アキラは隣に腰かける鎧ナコに聞く。
「さあ。虹が消えるまで」
鎧ナコはいたずらっぽく笑い、「ジューンブライドは飽きた」と純白のドレスの胸元を弾く。と、ドレスはするりと脱げて、はるか下の暗い海へとくるくる落ちていった。鎧ナコは所々肌が覗く脚を組んで、鎧のヘッドからなびく髪をかき上げて、蠱惑的な瞳でアキラを見る。
「もう少しこのまま、アキラといていい?」
「二度とオレを襲わないと約束するなら」
「残念ながらその約束はできない」ふっくらした唇は笑う。
アキラは頭を抱える。極寒の天空にかかる虹のアーチ上に、鎧姿の少女とふたりで腰かけているのは、世界で自分だけだろう。しかも隣にいるのは普段と性格が180度違う凶暴で大胆不敵な娘だ。謎だらけのなか、その中心にいるのは、ナコだ。
「どうせオレは呪われた運命の、大馬鹿野郎さ」呟くアキラに、
「いつも感謝してる」
アキラの腕に手を回して、鎧ナコは肩に頬を寄せかかる。鋼の冷たさと肌のぬくもりをアキラはうっすら感じる。ナコの口ずさむ声が聞こえた。
「星に願いをこめれば いつしか雲の上 いつか虹の彼方に 青い鳥が飛ぶ
その夢 私なら かなえられる」
夜更けの暗く殺風景な、とある部屋。
くすんで鈍く光るアルトサックスの向こう、ライトのもとで黙々とドライバーで機械作業を続ける若い男がいる。手元には、セーラー服のナコのスナップ写真が数枚、そして鎧姿の写真、そのさきのPCディスプレイには、野球部の部室を覗くナコのビデオがチカ、チカと流れている。
「…みっけた」
男はスパナを舐めると、ナコの写真に放る。そばには手錠、起爆タイマー、そして「爆破予告」と書かれたリカルドボッサの詞の書かれた、しわがれた紙。
と、空が黒みを帯び、雷が鳴る。地揺れとともに目の前の地面に、#がみるみると浮き出た。
「ナコ、奴らだ」リュックのアルが息をのむ。
龍が地中を潜る如く地面が盛り上がりながら、ナコに迫ってくる。ナコはリングを付け、気をこめる。ドレス姿の鎧ナコにメタモルフォゼすると、リングの手で地面を叩く。盛り上がった地面は後退する。すると地面から影が次々と現れアキラの足に絡み、アルの首に巻き付く。「ナコ!」
「イカロス!」鎧ナコは空に叫ぶ。モノレールがレールを外れて火の鳥となってやってくる。鎧ナコはイカロスに飛び乗ると、アキラに手を差し出した。
「ついてこい」
「え…っ?」
「さっさと来い」
アキラは鎧ナコの手に引っ張られ、イカロスを慌てて掴む。身体が浮く。「バイバーイ」アルは、小さくなっていく地上の影たちに叫ぶ。イカロスは七色に変化しながら、空へ大きなアーチを描いていった。
夕闇迫る千葉港の海上には、巨大な虹のアーチがかかっていた。
上空、マテリアル化した七色の虹。そのてっぺんのあたりに鎧のナコとアキラは腰かけている。
眼下には千葉港の鉄鋼や燃料工場群の赤銅色の灯がゆらゆらと光り、東は房総半島、西はスカイツリーや東京タワーのある都湾岸エリアの夜景、その地平線の向こうに夕陽は沈んでいく。地上100mのポートタワーもはるか下、目の前には市街のビル群がそびえ、住みかであるみなとハウスの灯りは全く見えない。
「で。いつ、ここから降ろしてくれるの」
上空の冷たい風に歯を鳴らしながら、アキラは隣に腰かける鎧ナコに聞く。
「さあ。虹が消えるまで」
鎧ナコはいたずらっぽく笑い、「ジューンブライドは飽きた」と純白のドレスの胸元を弾く。と、ドレスはするりと脱げて、はるか下の暗い海へとくるくる落ちていった。鎧ナコは所々肌が覗く脚を組んで、鎧のヘッドからなびく髪をかき上げて、蠱惑的な瞳でアキラを見る。
「もう少しこのまま、アキラといていい?」
「二度とオレを襲わないと約束するなら」
「残念ながらその約束はできない」ふっくらした唇は笑う。
アキラは頭を抱える。極寒の天空にかかる虹のアーチ上に、鎧姿の少女とふたりで腰かけているのは、世界で自分だけだろう。しかも隣にいるのは普段と性格が180度違う凶暴で大胆不敵な娘だ。謎だらけのなか、その中心にいるのは、ナコだ。
「どうせオレは呪われた運命の、大馬鹿野郎さ」呟くアキラに、
「いつも感謝してる」
アキラの腕に手を回して、鎧ナコは肩に頬を寄せかかる。鋼の冷たさと肌のぬくもりをアキラはうっすら感じる。ナコの口ずさむ声が聞こえた。
「星に願いをこめれば いつしか雲の上 いつか虹の彼方に 青い鳥が飛ぶ
その夢 私なら かなえられる」
夜更けの暗く殺風景な、とある部屋。
くすんで鈍く光るアルトサックスの向こう、ライトのもとで黙々とドライバーで機械作業を続ける若い男がいる。手元には、セーラー服のナコのスナップ写真が数枚、そして鎧姿の写真、そのさきのPCディスプレイには、野球部の部室を覗くナコのビデオがチカ、チカと流れている。
「…みっけた」
男はスパナを舐めると、ナコの写真に放る。そばには手錠、起爆タイマー、そして「爆破予告」と書かれたリカルドボッサの詞の書かれた、しわがれた紙。
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