埋立地歴史散歩01~海防艦として生まれ、最後は公民館となった船の物語~

  2019/7/26
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船の公民館として知られた「千葉市海洋公民館こじま」が解体されて、20年以上の月日が経ちました。「こじま」は、海岸線から2キロも内陸にある池に、本物の船がで~んと居座っている不思議さ故、テレビのクイズ番組等でもとりあげられて、存在自体は有名だったものの、この船についての詳しい歴史はあまり知られていません。そこで、かつて千葉市の埋立地のシンボルであった「こじま」の知られざる船歴をご紹介しようと思います!

住宅街のド真ん中にある小さな池に浮かぶ本物の船!?一体どうしてこうなった?

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住宅街のド真ん中にある池に鎮座する「こじま」の姿
こじまのそばの団地の階段から見ると、このような風景でした。
現在、高洲スポーツセンターが建っている場所には、住宅街のド真ん中にある池に全長約80mの本物の船が鎮座しているという、冗談みたいなシチュエーションの公民館が存在していました。その施設の名は「千葉市海洋公民館こじま」と言い、この地域の本格的な埋め立て工事が始まる前に、海上保安庁を退役した「こじま」を接岸して、その場所を取り残す形で周囲を埋め立てていった結果、このような奇妙奇天烈な光景が誕生したのであります。

「こじま」の前身は、何と海軍の海防艦!しかも、戦艦「大和」最後の出撃にも関わっていました

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海洋公民館の「こじま」と海防艦「志賀」
「こじま」は、太平洋戦争末期の昭和20年3月20日に、海防艦(敵の潜水艦や航空機から輸送船を護衛する艦艇)「志賀」として、長崎県の佐世保海軍工廠で竣工しました。写真の2隻の船の模型は、奥が「こじま」で、手前が「志賀」です。「こじま」(志賀)は、53年間の船歴の中で、幾度も改装されてきましたが、この写真を見ても、とても同じ船のビフォー・アフターとは思えないくらいの変貌を遂げています。

昭和20年4月6日、「志賀」は、米軍が上陸した沖縄に向けて水上特攻を実施する戦艦「大和」の為に、九州の豊後水道付近で前路掃討作戦(露払い)を実施し、敵潜水艦1隻を撃沈したと報告しています。戦艦「大和」は、「志賀」が切り開いた航路を通って最後の出撃を果たし、翌日、数百機の敵機と激闘を繰り広げた末に轟沈しました。また、同年7月31日には、長崎県の壱岐に停泊していたところを、約70機もの敵機に急襲されるも、全く損害を受けなかったばかりか、対空戦闘によって敵機2機を撃墜したと報告しています。ちなみに「志賀」は、戦争中数度に渡って戦闘を経験しましたが、乗組員の戦傷死者がゼロという強運の艦でした。

戦後、「志賀」は日本近海に敷設されたままになっている機雷を除去するという危険な任務に就いた後、昭和21年に米軍の連絡船として使用する為に、大規模な改装工事を実施しました。この改装では、甲板上の構造物を大幅に増築して乗船者用のスペースを確保したため、設計を担当した技師本人が「この船、重心が高くなっちゃったから、ひっくり返る危険性があるかも…」と心配するほどでした。しかし、いざ運用してみると、元海防艦だけあって連絡船としては高速で、意外なことに乗り心地も良く、乗船した米軍兵士からの評判はとても良いものであったそうです。ちなみに、連絡船時代は「シガー」の愛称で親しまれていました。

連絡船としての運用が終わると、今度は何と中央気象台の定点観測船「志賀丸」として太平洋上で気象観測の任務に就くことになりました。この仕事は艦艇としては小型の「こじま」にとって大変厳しいものであったらしく、海が荒れた時は、打ちつける波の衝撃によって船体が激しく振動し、かなりの危険を伴った航海となったそうです。

昭和29年には海上保安庁に編入となり、「こじま」と改名して就役し、海上保安大学の練習船として運用されました。「こじま」は、年に一回訓練生を乗せて遠洋航海を実施し、海上保安庁の人材育成に大きく貢献しました。この遠洋航海では、遠くハワイやアメリカ西海岸まで航海を行ない、時には大きな台風に遭遇して、波浪の打撃により艦橋が傾くほどの損傷を受けたこともありました。また、昭和31年には、優れた人員収容能力を活かして、北朝鮮やソ連からの在留邦人引揚げ輸送にも活躍しました。

昭和40年、海上保安庁を退役した「こじま」を巡って、「こじま」の母港であった広島県の呉市と千葉市による招致争いが起こりましたが、「埋め立てによって失われる海の記憶を継承する施設としたい!」という斬新なアイデアを掲げた千葉市に譲渡され、呉からはるばる回航されてきました。そして、本格的な埋め立て前の稲毛海岸に接岸されて、世界初の「海洋公民館」として開館したのです。

本物の船を、そのまま公民館施設として活用するという斬新なアイデアは、世間を大きく賑わし、一日数千人もの来館者が訪れた日もあるそうです。当時の職員の悩みの種は、多すぎる来館者の足音がうるさ過ぎて、会議室で会議が出来ないじゃないか!というクレームが多発したことと、展示室にある船の模型を来館者が触ってしまい、細かい部品が壊されてしまうことだったそうです。

開館当初は海だった「こじま」の周囲も埋め立てられ、住宅街の中に突如現れる本物の船という珍妙な状況になってからも、「こじま」は海洋公民館としてのユニークな活動を継続しました。当時の講座には、手作りヨット講座や海洋法規講座といった大人向けの専門性の高いものから、海に関する映画の上映会まで、幅広いプログラムが運用されていました。また、かつての船員室をそのまま活用した宿泊施設も、地元の子ども達の合宿所として大いに活用されました。

その後も「こじま」は、千葉市の埋立地の変遷を見守り続けながら、27年間に渡って海洋公民館として活躍した後、平成10年に施設の老朽化により解体・撤去されました。

常に最前線で奮闘する宿命を持った船「こじま」

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「こじま」甲板上での記念写真
公民館であるこじまは、地元の子ども達にとって最高の遊び場であり、学び場でもありました。
古来より「船は、人のように宿命的な命運を帯びる乗り物だ」といわれていますが、「こじま」の船歴を振り返ると、この言葉を信じたくなるでしょう。

「こじま」は海軍の海防艦として建造されましたが、この海防艦という艦種は、戦艦や空母といった主力艦同士の決戦により勝敗を決するつもりであった日本海軍の中では、添え物のような扱いをされており、あくまで使い捨てが前提の兵器でした。しかし、対戦相手の米軍は、近代の海戦において重要視すべきものは、前時代的な艦隊決戦などではなく、日本の海上補給路を壊滅させることであると正しく認識していたため、輸送艦の護衛を務める海防艦が攻撃の矢面に立たされることになったのです。味方からは二線級の継子扱いを受けながら、戦場では常に最前線に立つことを余儀なくされた海防艦は、日本海軍の艦艇の中でもとりわけ悲劇的な存在であったといえます。特に終戦間際に建造された「こじま」は、戦時急造に特化した簡素な作りとなっており、使用された鋼材の質も、現在の基準だと商船にすら使用できないほど粗悪なものが使用されていました。

しかし、運命とは皮肉なもので、「こじま」よりもはるかに巨大な戦艦や空母等の主力艦艇は敗戦により姿を消し、より強力な装備を持っていた駆逐艦等は他国に取られ、一番小さく非力だったはずの海防艦である「こじま」が、戦後の日本に残されて活躍したのです。そして、海上保安庁の練習船として、かつての敵国の母港であったハワイに友好国の船として入港する運命を辿ろうとは、一体誰が予想することが出来たでしょう。

また、千葉市が「こじま」を「海洋公民館」という位置づけに置いたことからも、この船の「常に最前線に立つ」という宿命が感じられます。通常、保存船を教育目的の施設として活用する場合、「博物館」として運用するケースが大半です。社会教育施設としては「公民館」よりも「博物館」の方がより専門的で上位に位置する印象を受けますが、千葉市は「こじま」を市民に一番近い存在の社会教育施設である「公民館」として運用しました。しかも、わざわざ「海洋公民館」というオリジナルの枠組みを用意してまで「公民館」にこだわったのは、設置者である当時の千葉市教育委員会が、「こじま」の元海防艦としての船歴を含めた歴史的意味合いを、極めて正しく理解していた証であるといえるでしょう。

結果、「こじま」は戦闘艦としても社会教育施設としても、極めて地味ながら、その時の社会にとって重要な役割を、常に最前線に身を置きつつ淡々と果たし続けたのです。

今だからこそ問われる「こじま」の存在意義

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疾走する「千葉市海洋公民館こじま」の模型
本物の「こじま」は、機関を取り外していたために動くことはできませんでしたが、模型の世界なら思うが儘に水面を走り回ることが出来ます。(撮影:さかいたつみ氏)
歴史的な視点から見れば、「こじま」の存在意義として第一にあげられるのは、太平洋戦争に参加した日本海軍の艦艇として、現存する最後の一隻であったということでしょう。終戦により、当時残存していた日本海軍の艦艇のほとんどは、戦勝各国に戦時賠償として分配され、それぞれの国で再び軍艦として使用されるかスクラップにされるかして姿を消していきました。「こじま」を含む数隻の海防艦は日本に残され、海上保安庁の巡視船として活躍した後、退役後はほどなくして解体される道を歩みましたが、「こじま」は新たに公民館として使い続けられたために、奇跡的に20世紀の終盤まで生き残ることができたといえます。

また、地域アイデンティティーの視点から「こじま」の存在意義を捉え直すと、とても興味深い事実が浮かび上がります。「こじま」は、以前から旧海岸線のそばで暮らしてきた人々にとっては、「この地がかつて海であったこと」の象徴として存在し、埋立地の団地群に移住してきた新住民にとっての「こじま」は、「新しい人工の大地の象徴」として存在していました。つまり、意味合いとしては全く逆の方向性を持つ、二つの地域アイデンティの共通の拠り所として「こじま」が存在していたのです。これは、埋め立てに対する強い反対運動があった旧海岸線と、新天地を目指して多数の人々が移り住んできた埋立地の境目に存在した「こじま」が、「陸封された船」という極めて特殊な状況に身を置くことによって、地域の心理的分裂を繋ぎとめていたと言い換えることもできるでしょう。

確かに「こじま」は、大きな歴史からすれば、正規の軍艦ですらない小艦艇であり、いくら太平洋戦争に参加した艦艇の最後の生き残りといっても、幾度も改装を行なってオリジナルの原型をほとんど保っていない状態でもあったので、純粋な文化財としての価値を見出すことは困難であったかもしれません。

しかし、小さな歴史の観点で見てみると、「こじま」の船歴は、命をかけて戦地に赴き、戦後は度重なる転職を繰り返しながらも、世のため人のために地道に働き続けて激動の昭和を生き抜いた、大多数の無名の日本人の人生を象徴しうるものであったと思います。つまり、等身大の歴史の貴重な生き証人であったということができるのです。

「こじま」の解体から20年を経た今、かつての等身大の歴史の生き証人からの言葉に耳を傾けると、聞こえてくる言葉は一体どのようなものなのでしょうか?

海洋公民館「こじま」誕生秘話~設立の立役者は千葉市を代表する芸術家!?~

埋め立て前の稲毛海岸は、海苔やハマグリ等の海産物が沢山獲れる豊かな漁場として、また東京に近い海水浴場としても有名な海岸でした。しかし昭和30年代後半から、高度経済成長の為に大規模な埋め立てが行われ、豊かな海は消え去りました。千葉市は、失われた「海の記憶」を忘れないために、また、子ども達の海洋教育の拠点として「千葉市海洋公民館こじま」を設置したといいます。「こじま」が開館した当初は、周囲はまだ埋め立てられておらず、地元の海洋少年団は、「こじま」の周囲の海でヨットやカッターの訓練を行っていたそうです。「こじま」の船内には、船の模型等、海洋資料の展示室や図書室、かつての船員室をそのまま使用した宿泊施設もあり、公民館としては充実した設備を誇っていました。また、艦橋には現役当時の操舵装置や羅針盤、双眼鏡、伝声菅等がそのまま残されており、実物に触れて学ぶことができるという、先進的でユニークな公民館でした。「海洋公民館」という名称も、唯一無二のものだったそうです。

「こじま」を海洋公⺠館という前例のない教育施設として開設させたキーマンは二人おり、一人は当時の千葉市の海洋少年団団長であった千葉市市議会議員の鈴⽊脩であり、もう一人は千葉市教育委員会社会教育課⻑であった遠藤健郎です。市の担当者であった遠藤健郎は、⾵俗をモチーフとした⾵刺的な独特の画⾵の絵画や画⽂集を制作する芸術家としても知られ、昭和49年に第3 回⽇本漫画家⼤賞特別賞を受賞した他、平成17年には千葉市美術館において、⼤回顧展「遠藤健郎絵画展ー戦後は終わった」が開催される等、千葉市を代表する芸術家の⼀⼈です。遠藤健郎の作品は千葉市美術館や千葉県⽴美術館にも多数収蔵されており、今も多くの市⺠の⽬を楽しませています。埋立地における、元海防艦を活⽤した海洋公⺠館という、⽇本で初めてのユニークな構想は、既成概念にとらわれることなく、新しい試みに果敢にチャレンジする芸術家兼市役所職員の存在があったからこそ実現したのでしょう。
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