埋立地歴史散歩03~千葉港に眠る!?謎の潜水艇の正体を追え!~

  2018/9/1
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今年3月に、国土交通省から「みなとオアシス千葉みなと」して登録され、益々健全でお洒落な街づくりが推進されようとしている千葉みなとエリアですが、終戦間際に日本軍のものと思われる潜水艇が、現在の出洲埠頭付近に座礁して、そのまま10年近くも朽ちるがままに放置されていたという、とってもミステリアスな伝説があることをご存知でしょうか?

終戦間際の混乱した状況の中、一体誰が、何のために潜水艇を座礁させたのでしょう?今回の記事では、この謎に満ちた潜水艇の正体を大胆予想してみたいと思います♪
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謎の潜水艇が座礁していた場所はどこ?

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謎の潜水艇座礁位置
国土地理院地図(電子国土WEB)を改編して使用
潜水艇が座礁していたと伝えらる位置は、現在は出洲埠頭の一部となっている、都川河口から鍵型に突き出た旧出洲突堤の先端付近であり、潜水艇は舳先を突堤側に向けた形で座礁していたそうです。また、その場所は今の住所で言うと、千葉市中央区出洲港14丁目付近になります。

謎の潜水艇について残された記録はあるの?

出洲突堤の傍に、座礁した旧日本軍の潜水艇が戦後も10年近く放置されていたなんて、にわかには信じがたいエピソードであり、現在の感覚からすると、新聞等に様々な記録が残されていそうな気もしますが、驚くほどに謎の潜水艇についての情報は存在していません。
しかし、千葉市文化振興財団が発行していた雑誌「カルチャー千葉」第4号(1983)に、写真家の沢本吉則氏が、この潜水艇についての記事を書いていました。それによると、終戦の日、沢本少年が出洲突堤の護岸壁に向かったところ、すぐ傍に座礁した黒い小型潜水艦があり、出撃したが終戦を知って逃げ帰って来たのだろうと思った旨が記されています。
この記事から、少なくとも昭和20年8月15日の時点では、件の潜水艇が錆に覆われていないので、終戦の日からそう遠くない時期に、この場所に座礁したと推察されます。

一体どんな潜水艇だったのでしょう?

この潜水艇の写真が残されていないかと思い、地域の古い写真屋さんに聞いてみても、当時この近所の人でカメラを持っている人が少なかった上に、お店の方も潜水艇の写真は撮っていなかったので、多分写真は残っていないのではないかとのことでした。
そこで、当時この地域で漁師をしていた方々に直接お会いして話を聞いたところ、皆さん大変よく覚えていらっしゃり、以下のようなとても貴重な情報を得ることが出来ました。

潜水艇の全長は約10m、全体の形状は海軍の特殊潜航艇「回天」に似ているが、もっと短くて(回天は全長約15m)寸詰まりな印象。

また、漁の帰りに、船を潜水艇に横付けして、上に乗ったことがあるという方は、船体の前寄りの部分に司令塔のような円筒形の突起物があったことを覚えているとおっしゃっていました。

潜水艇の艦種を特定してみよう!

筆者が、謎の潜水艇の話を初めて聞いた時、おそらく近くの基地で訓練中の「回天」が、故障か事故で流れ着いたものだろうと考えていたのですが、元漁師さんたちは、確かに「回天」に似てはいたが、「あんなに細長くなくて、ウィンナーみたいな形だった」とおっしゃっていました。

そこで、一応「回天」について調べてみると…

何と千葉近辺には終戦まで「回天」が配備された基地(配備予定は有)は無く、航続距離の短い「回天」の可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
海軍の他の特殊潜航艇について調べてみるも、「甲標的」や「蛟龍」は全長20m以上もあるので×。「海龍」は全長約17mなので、念のため元漁師さんたちに「海龍」の写真を見てもらいましたが、これも形が違うとのことで、調査は万事休すに陥ったのでありました。
そこで、海軍以外の潜水艇についても調べてみたところ…。

こんなん潜水艇出ましたけど~

最強の容疑者現る!!

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西村式潜水艇
画像はウィキコモンズより引用
この西村式潜水艇は、海軍が開発したものではなく、西村一松という民間人が、昭和4年に珊瑚採集のために台湾で開発した潜水艇です。艇の前方には、海中で作業ができるように、投光器やマジックハンドまで装備されていました。
この西村式潜水艇の図面を見てみると、寸詰まりのウィンナーのような船体形状や、円筒形の司令塔のような突起物の存在といい、元漁師さんたちの証言と不気味なほどの一致をみせています。

そして、この潜水艇の全長は…

なんと、ほぼぴったり10mでございました‼
※1号艇の全長は10m、2号艇は10.78m

西村式潜水艇と千葉の黒い繋がりが急浮上!

外見上の特徴から、謎の潜水艇の正体は西村式潜水艇でした~!とサクッと断定したいところですが、そうは問屋が卸さないのが世の常であります。

西村式潜水艇は、1号艇が昭和4年に開発者である西村一松の私財によって建造され、2号艇は昭和10年に、昭和電工や日本硫安の社長を務めていた森矗昶の資金援助によって建造されました。同年、何故か陸軍が西村式潜水艇に強い興味を持ち、1号艇を徴用(後に買い上げ)し、後に2号艇も同様の道を辿りました。井上晴樹著「日本ロボット戦争記 1939~1945」によると、徴用された2隻の西村式潜水艇は、伊豆の伊東港にあった水産試験所に送られて、千葉の鉄道連隊の大尉二名が中心となって調査・研究を行ったとされています。
その後ほどなくして、海軍も西村式潜水艇の有用性に気付き、海中作業性能を向上させた改良版の2隻をライセンス生産しています。

西村式潜水艇は以上の4隻が建造され、様々な調査・研究や海難救助作業等に活躍した後、全てが終戦まで生き残りました。そして、戦後は米軍により3隻が海没処分とされ、海軍がライセンス生産した2隻のうち1隻のみがアメリカに持ち去られました。

つまり、千葉に残された西村式潜水艇など、記録上は存在しないのです。

しかし、ここで気になるのは1号艇と2号艇の調査・研究を行ったのが千葉の鉄道連隊から派遣された大尉2名であったという点です。

後に陸軍は、ガダルカナル島のように海上補給路が途絶してしまった戦場に、補給物資を届けるための小型潜水艦「三式輸送潜航艇」(通称:まるゆ)を自力開発するのですが、この際に、最新技術の塊であるはずの潜水艦の設計を、たった2か月で仕上げるという離れ業をやってのけました。

この裏には、間違いなく先の鉄道連隊の大尉二名が、西村式潜水艇を徹底的に調査したデータが活かされたことに相違ありませんが、潜水艦を作った経験が全く無かったはずの陸軍が、こんな短期間に潜水艦の開発に成功し、しかも実戦配備にまでこぎつけたことは、現在でも大きな謎とされています。

でも、もし「まるゆ」開発の前に、陸軍が潜水艦の開発経験を持ち得ていたとしたら?

また、「まるゆ」の生産は、全国の造船所を海軍に抑えられていたために、ボイラー工場等の潜水艦建造経験がない施設が手掛けることになりましたが、その中でも24隻という最大数の「まるゆ」を建造したのが日立製作所笠戸工場でした。

話を謎の潜水艇に戻すと、彼の船が座礁していた出洲突堤のすぐそば、現在JFEスチール千葉の東工場地区(アリオ蘇我の周辺)がある場所は、戦時中、日立航空機の工場があった場所でした。そうです、あの「まるゆ」を大量建造した日立製作所笠戸工場と同じ、日立グループ工場のすぐ傍、距離にして数百メートルしか離れていない場所に謎の潜水艦は座礁していたのです。

大胆予想!謎の潜水艇は幻の西村式潜航艇!?

さて、ここからは筆者の独断と偏見120%で、謎の潜水艦の正体を勝手に大胆予想していきたいと思います!

まず最初に、この潜水艦の艦種については、やはり陸軍が極秘裏に建造した西村式潜水艇の5番艇であったと予測しちゃいましょう。

なんで陸軍が潜水艦なんか作ろうと思うんだよ!? そんなの、老舗和菓子屋の新作お菓子が、まさかのイチゴのショートケーキだったくらい変だろ!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、昭和10年あたりの日本陸軍は、潜水艦どころか強襲揚陸艦のご先祖様みたいな船や、オートジャイロ(小型のヘリみたいなメカ)や小型の航空機を運用できる空母まで建造しており、もはや小国の海軍なんて比にならないくらい海上兵力の整備に精力的に取り組んでいたのであります!

その理由は、やはり海軍との勢力争いによる確執としか考えられず、渡海作戦時や船団護衛時に、いちいち海軍に頭を下げて作戦に協力してもらうのが心底嫌だったのでしょう。

そんなわけで、ちょいと改造すれば敵の港にこっそりと潜入して各種破壊活動を行うことができるであろう西村式潜水艇は陸軍の目にとまり、昭和10年に1号艇が、同12年に2号艇が陸軍に徴用され、後に買い上げとなったのは前述のとおりです。

で、この時やっちまったんでしょうなぁ、陸軍さん。

そう、禁断のデッドコピー(無断違法コピー)を…

当時の陸軍の感覚からすれば、「お国のためなんだから、そんくらいいいよね西村さん!」くらいの軽いノリだったのかもしれません。さすがに、西村氏も出入りする伊東の施設で作っちゃうのはバツが悪いでしょうから、別の場所で密かに建造したものと思われます。なににせよ、最初に潜水艇の研究を行った大尉二人が所属する千葉の鉄道連隊本部のすぐ傍でもあり、海に隣接している蘇我の日立航空機工場は、恰好の作業現場兼隠し場所であったと思います。

しかし、陸軍にとってまずかったのは、その後、西村式潜航艇に目を付けた海軍は、西村氏から正式にライセンス権を買い取って2隻を建造したということでしょう!

徴用からの買い取りという、仄かに国家による強奪っぽさの漂う陸軍のやり方と比べると、海軍のスマートさが光ります!その上、開発者である西村氏に無断でデッドコピーまでしていたことが公になれば、陸軍の威信は激しく傷つくことになるでしょう。そんなわけで、作っちまったはいいけれど、表で使う訳にもいかず、蘇我の日立航空機工場内にひっそりと隠されていたのかもしれません。

そして昭和20年になり、千葉市も他の大都市同様、米軍の空襲ターゲットとなりました。
特に、6月10日に行われた空襲は、蘇我の日立航空機工場が標的とされ、激しい爆撃が加えられて周辺地域にも大きな被害を出しています。さらに、7月7日には、中心市街地全般が狙われた大空襲(七夕空襲)が実施され、千葉市は沿岸部を含む市街地の大半が焼失するという大きな被害を被りました。

筆者は、この2度の空襲が謎の潜水艇座礁の原因であると予想します。
まず、潜水艇は6月10日の空襲では辛くも破壊を免れたものの、工場が米軍に狙われていることが分かり、次の空襲時は何とか海に逃がそうと考えたと思います。

そして、その理由は以下の二つがあるのではないかと推察してみました。

【理由1】
・純粋に潜水艇の保全を図るために、海に引き出して空襲をやり過ごそうとした。

【理由2】
・潜水艇の存在を隠蔽するために、海に沈めてしまおうと考えた。

理由1については、一番素直に考えた場合のものです。陸軍は、少しでも戦力を温存するために、七夕空襲時に潜水艇を何とか海に引き出してみたものの、普段から整備や訓練を行っているわけでもない潜水艇は、海に出てすぐに機械トラブルが発生して漂流、当時浅瀬だった出洲突堤付近に流れ着いたというものです。

理由2については、陸軍があくまで潜水艇の存在を公にしないことを優先した場合です。まず、七夕空襲時に工場ごと焼き払われてはまずい理由の一つに、西村式潜水艇の強固過ぎる船体構造があげられます。元々深海作業用に作られた西村式潜水艇は、世界の軍用潜水艦ですら安全潜航深度が100m前後だったところ、300m以上も潜ることが可能という恐るべき耐久性を備えており、たとえ工場が焼けても、頑強な船体はそのまま焼け残ってしまう恐れがあります。それを避けるために、七夕空襲時に海に沈めてしまおうと慌てて引き出したものの、理由1と同じく機械トラブルにより座礁…

以上、謎の潜水艇を海に引き出した理由は全く正反対なものの、結果としては機械トラブルにより、出港してほどなく座礁してしまったというのが、筆者の推論です。

謎の潜水艇は、今どこに!?

地元の元漁師の方のお話によると、自分達は漁業権を放棄して海を離れてしまったので、謎の潜水艇の最後を直接見届けてはいないそうですが、昭和30年代に出洲の埋立て工事が始まるギリギリまであったと思うとのことでした。

現在、埋立地の工事現場でまれに見かけるのが、巨大な錆びた鉄のパイプが埋められているのを掘り起こしている場面です。それは、明らかに埋め立て時に土砂を運んだサンドパイプであり、それが完全に撤去されておらず、適当にその辺に埋められてしまったものがそれなりにあったことの証と言えます。当時の埋立て工事は、今では考えられないほど大らか(ずさん)であったのでしょう(笑)

そこを考えると、全長10mもある錆びた潜水艇を、わざわざ解体して撤去するとは考えにくく、恐らく「埋立ててしまえばどうせ分からないんだから、そまま埋めちゃえ~♪」ってな感じでノリノリで埋めちゃった気がするんですよね。

そうだとすると、出洲港14丁目の道路の下には、謎の潜水艇が今も地下に眠っているかもしれません。

ここ最近、長らく所在不明だった戦艦「武蔵」の船体が発見されたり、五島列島付近では、戦後米軍に海没処分に付された大量の潜水艦が見つかったりと、艦艇の沈没場所が次々と明らかになっています。

しかし、ひょっとすると、埋立地の地下から、あったはずのない西村式潜水艇の5番艇が出土する可能性もあるのです。どなたか、ポール・アレン氏ばりの財力をお持ちの方に出洲埠頭の土地を買い占めて頂き、ユンボで掘り返しまくるという素敵なプロジェクトを実施してもらいたいものですな。

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