千葉一族盛衰記 第二十九話「常胤、沈黙の勝利」【稲毛新聞2025年11月号】
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2025/11/6
常胤の「知」と「根気」が固めた土台
保延から久安にかけての十年間、相馬御厨は、藤原親通・源義朝・千葉常胤という三者の権利が錯綜する、まさに「東国の縮図」ともいえる混沌の中にありました。
国司は強権をふるい、中央の武士は寄進を口実に介入し、在地の豪族はそれに翻弄されながらも、地の民とともに生活の場を守り続けていたのです。一方、混乱の只中で静かに息を潜めていた常胤は、やがて誰よりも確かな形で相馬を手中に収めることになります。
彼が用いたのは、剣でも矢でもなく、「法」と「時の流れ」でした。源義朝による強引な寄進ののち、相馬御厨は形式上、伊勢神宮領として扱われます。しかし実際に年貢を徴し、郡の運営を担っていたのは常胤でした。常胤は、父常重の罪科によって失われかけた郡司職を合法的に回復し、官物を納入し続けることで「支配の正統性」を再構築していくのです。
彼のこの粘り強い性質と、地下茎のように静かに、しかし強固に構築された所領の支配体系が後の千葉一族の繁栄につながっていくと考えると、まさにこの時期の試練は千葉一族にとっての「塞翁が馬」でした。
国司は強権をふるい、中央の武士は寄進を口実に介入し、在地の豪族はそれに翻弄されながらも、地の民とともに生活の場を守り続けていたのです。一方、混乱の只中で静かに息を潜めていた常胤は、やがて誰よりも確かな形で相馬を手中に収めることになります。
彼が用いたのは、剣でも矢でもなく、「法」と「時の流れ」でした。源義朝による強引な寄進ののち、相馬御厨は形式上、伊勢神宮領として扱われます。しかし実際に年貢を徴し、郡の運営を担っていたのは常胤でした。常胤は、父常重の罪科によって失われかけた郡司職を合法的に回復し、官物を納入し続けることで「支配の正統性」を再構築していくのです。
彼のこの粘り強い性質と、地下茎のように静かに、しかし強固に構築された所領の支配体系が後の千葉一族の繁栄につながっていくと考えると、まさにこの時期の試練は千葉一族にとっての「塞翁が馬」でした。
常胤の転換点
この沈黙の期間こそ、千葉氏が「在地領主」から「在地支配者」へと変わる、最初の転換点でした。
そして、平治の乱(1159年)によって源義朝が失脚すると、その形式的な寄進関係は霧散します。相馬御厨の権利は、中央から誰も干渉できぬ「空白地」となったのです。
しかし、その空白を突いて、常陸の佐竹氏がたびたび北相馬へ侵攻し、神領の田畑を荒らしたことが「神鳳抄(しんぽうしょう)」や「吾妻鏡」などの記録に見えます。
それでもなお、地を治め、民に税を課し、伊勢神宮への名目上の寄進を絶やさなかったのは千葉常胤ただ一人でした。常胤が粘り強く守った沈黙の十年。それは、後に頼朝を支える在地武士団の礎となる「房総の勝利」だったのです。
そして、平治の乱(1159年)によって源義朝が失脚すると、その形式的な寄進関係は霧散します。相馬御厨の権利は、中央から誰も干渉できぬ「空白地」となったのです。
しかし、その空白を突いて、常陸の佐竹氏がたびたび北相馬へ侵攻し、神領の田畑を荒らしたことが「神鳳抄(しんぽうしょう)」や「吾妻鏡」などの記録に見えます。
それでもなお、地を治め、民に税を課し、伊勢神宮への名目上の寄進を絶やさなかったのは千葉常胤ただ一人でした。常胤が粘り強く守った沈黙の十年。それは、後に頼朝を支える在地武士団の礎となる「房総の勝利」だったのです。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
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