埋立地歴史散歩04~「埋立地1979」サイドストーリー・とある家族のアルバムより~
2021/5/3
以下は 3 年前に書かれた内容です
最近、巷で噂の千葉の埋立地をフィーチャーした雑誌『月刊埋立地』ですが、冒頭章の「埋立地1979」の空気感を、よりリアルに感じることができる当時の写真(我が家のアルバムから)をご紹介いたします。
千葉の埋立地が、まだ出来立てホヤホヤで、全てがピカピカに輝いていた時代。
だけども、埋め立てによって殺された海の廃墟のオーラが色濃く残っていた時代。
真新しい団地のすぐ先には、工事未着手の広大な空き地が遠くまで広がっていました。
まるで終戦直後の荒野の様に、何もない原っぱに真新しいアスファルトのまっすぐな道だけがずっと先まで伸びていて、道の両脇に立つ電柱と街路樹が延々と並んでいるシュールな光景。
海と陸との狭間の様な…
過去と未来の狭間の様な…
日常と非日常の狭間の様な、シュールで不思議な人工の大地。
それが、あの時の埋立地。
※記事内写真の無断コピーや転載はしないでください。
千葉の埋立地が、まだ出来立てホヤホヤで、全てがピカピカに輝いていた時代。
だけども、埋め立てによって殺された海の廃墟のオーラが色濃く残っていた時代。
真新しい団地のすぐ先には、工事未着手の広大な空き地が遠くまで広がっていました。
まるで終戦直後の荒野の様に、何もない原っぱに真新しいアスファルトのまっすぐな道だけがずっと先まで伸びていて、道の両脇に立つ電柱と街路樹が延々と並んでいるシュールな光景。
海と陸との狭間の様な…
過去と未来の狭間の様な…
日常と非日常の狭間の様な、シュールで不思議な人工の大地。
それが、あの時の埋立地。
※記事内写真の無断コピーや転載はしないでください。
海まで広がっていた荒野のような空き地
この写真は、昭和52年頃。母によると、当時私が住んでいた真砂1丁目の団地から、海岸を目指して家族でハイキングに出かけた日の写真だそうです。遠くには、真新しい県立磯辺高校の校舎が見えます。
この時から四十数年後、この磯辺高校の卒業生(ちば文化センターの神作氏)達と一緒に千葉の埋立地を題材にした本を作ることになろうとは、この時の自分は知る由もありません。
この時から四十数年後、この磯辺高校の卒業生(ちば文化センターの神作氏)達と一緒に千葉の埋立地を題材にした本を作ることになろうとは、この時の自分は知る由もありません。
完成直後の稲毛の浜
完成から間もない頃の稲毛の浜の様子。かなりたくさんの人でごった返していることに驚かされます。しかし、当時の東京湾はかなり汚く、子どもながらに「この海、絶対にヤベェな…」と思いながら泳いでいました(笑)
団地も学校も、街の全てが新品だった!
この写真は、昭和50年頃に高洲の団地で撮られたものです。アスファルトの道路も新品で、真新しい街の雰囲気が伝わってきます。父親のバキバキの七三分けが、ある意味一回りしてお洒落に見えてきます(笑)
学校名は不明だが、埋立地に建てられた小中学校の典型的な校舎。フェンスもブロック塀もまだ設置されていないので、出来てすぐ、もしくはまだ完成していないのかもしれません。この後、この学校も児童・生徒数の急激な増加により、校舎の増築やプレハブ校舎の設置等を行ったものと思われます。
地元の子には「汽車の公園」として認識されてしまった、日本初の民間飛行場跡地である「稲岸公園」
今では「ぽっぽの市」という名のイベントが開催されるくらい、公園内に置かれたSLが象徴的な「稲岸公園」ですが、実は日本で初めて開設された民間航空の飛行場跡地なのです。それを分かりやすく示すものが、飛行機の尾翼をモチーフにしたモニュメントくらいしかないため、圧倒的な存在感を誇るSLに、公園の象徴の座を奪われてしまっても致し方なしといったところでありましょう。何を隠そう、私も子どもの頃、「稲岸公園」の事を「汽車ぽっぽ公園」って呼んでいましたから(笑)
子ども達にとっては、目に見えない歴史なんかより、目の前にある鉄の塊のリアリティこそが正義!川崎製鉄で貨車の入れ替えなどで活躍したこのSLも、第2の人生は子どもの為の遊具という幸せなものでした。運転室の天井に張られた板を見て、「汽車なのに木で出来てる!」とびっくりした記憶があります。
埋立地のシンボルといえば、やはり「こじま」!
SLが置いてある「汽車ぽっぽ公園」…じゃなかった、日本初の民間航空飛行場跡地である「稲岸公園」から道路一本挟んだ場所には、千葉市の埋立地のシンボルといえる「千葉市海洋公民館こじま」がありました。全長約80mの本物の船が、住宅地の真ん中にある池にで~んと居座っている様は、シュールを通り越して、もはやある種の威容すら放っていたいように思います。
写真は、「こじま」を前にして大興奮のわたくし。この時すでに、大人になったら重症の艦船マニアに育ち、「こじま」の調査・研究をライフワークにすることは決まっていたのかもしれません…。
写真は、「こじま」を前にして大興奮のわたくし。この時すでに、大人になったら重症の艦船マニアに育ち、「こじま」の調査・研究をライフワークにすることは決まっていたのかもしれません…。
甲板上を物思いにふけりながらヒタヒタと歩く子どもの頃の筆者。撮影時期は恐らく昭和52年頃と思われる。「こじま」の甲板上を歩くその瞳には何が映っていたのでしょう?幼いころの記憶を辿ると、この時既に海岸線は2キロも先になっていましたが、私は「こじま」から、確かな潮の気配というか、海の記憶を感じ取っていたように思います。それは、あの船体に塗り重ねられた強烈なペンキの匂いがそうさせたのか、はたまた、船体そのものに染み付いて消えることのない記憶を感じ取っていたのでしょうか。
「こじま」を取り囲んでいた池では、地元の海洋少年団がヨットを浮かべたり、ラジコン船マニアのおじさん達が、船の模型を走らせていたり、様々な水ものイベント行われていました。私も、この池で走るラジコン船の美しさにすっかり魅了されてしまい、恐らく一生涯続けることになるであろう船の模型という趣味と出会ってしまったのです。
今こそ残し、新たに紡ごう。千葉の埋立地の歴史と文化
昭和49年に高洲の団地で撮影された写真。生まれたばかりの私を抱いて微笑む母も、今ではすっかり年老いました(笑)
約半世紀前。完璧に区画整理された、当時最新鋭の街である埋立地にやって来た人々は、一体どんな想いで人工大地での新生活を始めたのでしょうか?
母の掛ける真新しいエプロンや、まだまだ若木の植え込みの木々からは、未来への希望が溢れ出ているように感じます。
約半世紀前。完璧に区画整理された、当時最新鋭の街である埋立地にやって来た人々は、一体どんな想いで人工大地での新生活を始めたのでしょうか?
母の掛ける真新しいエプロンや、まだまだ若木の植え込みの木々からは、未来への希望が溢れ出ているように感じます。
千葉の埋立地が造成されて早半世紀が経とうとしています。その間、あの街で人生の一時を過ごした人は一体どれくらいの数になるのでしょう? きっと途方もない数になるのだと思いますが、いざ埋立地の歴史を振り返ろうとすると、写真を含めて意外なほどにまとまった記録が少ないことに驚かされます。
埋立地の象徴であった「千葉市海洋公民館こじま」ですら、正確な図面が存在しておらず、正しい形状は写真から判断するしかないという有様です。
しかし、博物館や図書館には僅かしか存在しない埋立地の貴重な記録が、無数の家庭のアルバムの中に眠っているはずなのです。そう、この半世紀を千葉の埋立地で過ごした人々のアルバムの中に。
今回は、昭和49年から52年頃までの埋立地の様子を、我が家のアルバムから写真をスマホで撮影したものでご紹介させていただきました。
このままだと、埋もれて消えてしまうかもしれない千葉の埋立地の記録を、皆で持ち寄り、公開し合うことで後世に残していきませんか?
「埋立地には歴史が無い」じゃないんです。もしかすると「歴史を作ろうとしてこなかった」という言葉が正しいのかもしれません。
今こそ、埋立地の歴史を振り返り、埋立地独自の文化を意識的に紡いでいく時だと思います。
行こうぜ!埋め立てのその先へ…
埋立地の象徴であった「千葉市海洋公民館こじま」ですら、正確な図面が存在しておらず、正しい形状は写真から判断するしかないという有様です。
しかし、博物館や図書館には僅かしか存在しない埋立地の貴重な記録が、無数の家庭のアルバムの中に眠っているはずなのです。そう、この半世紀を千葉の埋立地で過ごした人々のアルバムの中に。
今回は、昭和49年から52年頃までの埋立地の様子を、我が家のアルバムから写真をスマホで撮影したものでご紹介させていただきました。
このままだと、埋もれて消えてしまうかもしれない千葉の埋立地の記録を、皆で持ち寄り、公開し合うことで後世に残していきませんか?
「埋立地には歴史が無い」じゃないんです。もしかすると「歴史を作ろうとしてこなかった」という言葉が正しいのかもしれません。
今こそ、埋立地の歴史を振り返り、埋立地独自の文化を意識的に紡いでいく時だと思います。
行こうぜ!埋め立てのその先へ…
以上は 3 年前に書かれた内容です
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